【台湾出身の歌手・レイジュ インタビュー】拠点を東京に移して活動の幅広がる「私は人との縁に恵まれている」

アーティスト

これまでに台湾やアジアで数々のライブを経験し、2011年に日本でデビューした台湾出身の歌手・レイジュ。2022年に拠点を福岡から東京に移して、さらに“麗珠”から”レイジュ”に改名し心機一転、再出発した。本記事ではそんなレイジュにインタビュー。新曲「大阪なみだ雨」のこと、故郷・台湾について、太陽のように明るく前向きな彼女に、いま感じていることを思いのままに語ってもらった。

終わった恋を想う前向きな歌

——新曲「大阪なみだ雨」が絶好調、YouTubeでも再生回数が約10万回(2023年3月28日時点)と、大人気ですね。大阪を代表するスポットも描かれた美しい歌、最初にお聴きになった時の心境は?

レイジュ
恋人や好きな人と一緒に歩いた大阪の街を通りながら、終わった恋を想う歌。やっぱり優しい男性のことはなかなか忘れられないですよね。未練たらたらな女心を描いているけれど、すごく前向きな曲です。私は最初、歌詞の意味を理解できない部分もあったんです。これはどんな恋だったのかな?とか、主人公に想いを馳せました。作曲家の田尾将実先生からのレッスンを受けながら次第になるほど!と、理解できるようになりました。作詞の高畠じゅん子先生と田尾将実先生の2人には今回初めて作って頂きましたが、2人のコンビネーションが素晴らしいんですね。

——レコーディング時のエピソードはありますか?

レイジュ
冒頭部分の“とても優しくされたから”を小節を回して演歌っぽく歌っていましたが、淡々と歌うように、と教えていただきました。最後の“あぁ雨”の部分は、ため息っぽく歌うようにしていますが、最初は演歌っぽさが出てしまい、少し苦戦しましたね。とはいえ、とても覚えやすい曲ですし、田尾先生が褒め上手、乗せ上手なので、楽しくスムーズにレコーディングが進みましたよ。歌い方のポイントとしては、冒頭部分は力を入れずに淡々と歌いあげること、そしてサビの部分、悲しい、寂しい、嬉しいという3つの雨を意識して歌うといいですね。そして、最後の“大阪なみだ雨”の部分も大阪の後に一呼吸入れることも大事です。

まるで、レイジュの人生を描いたようなカップリング曲

——そしてカップリング曲の「人生はひまわりのように」もドラマティック。故郷を思う歌であり、歌詞がレイジュさんの人生とも重なりますね。

レイジュ
初めてこの歌詞を見た時、涙が止まらなかったんです。高畠先生には“歌が好きです”それだけを伝えていただけなのに、私の歩んできた道すべてを書いて下さった。なんでこんなに分かるの?高畠先生すごい!って驚きましたよ。感激しすぎて、頂いた詞は、額縁に入れて飾っています。カップリング曲の方が歌うのに苦労しました。特に“やるべきことの半分も できてはいないけれど あしたに夢を託して進むよこの道”の部分はリズムが取りにくくて難しかったですね。アジアの人たちはラ行や濁点は歌いにくいのですが、そこも私の魅力としてレコーディング時も私の良い部分も探ってくださいました。本当に良い曲に出合うことができました。

口数が少なかった幼少期、歌のレッスンは“やまびこ”

——台湾ご出身のレイジュさん、長らく故郷には帰られていないのでは?

レイジュ
台湾の宜蘭県が私の故郷なんですが、もう全然帰っていないですね。郷愁もありますが、今はSNSで手軽にビデオ電話ができるのでとても助かっています。だけど、やっぱり直接会いたいし、故郷の野菜たっぷりの家庭料理も食べたいですね。まずは、日本で曲をヒットさせること!ヒットしてから帰ろうと思っています。それに台湾でコンサートをしたいという夢もありますから。

——7人きょうだいの末っ子とのこと、どんな子ども時代を過ごされましたか?

レイジュ
順番は兄、兄、姉、姉、兄、兄、私。父は外省人(1945年10月25日以降、中国大陸各地から台湾に移り、台湾人として定住している人々のこと)ということもあり、私が父の話す言葉を話すと、同級生から石を投げられて虐められたことがあるんです。それから心を閉ざしてしまい、話すことがでなくなって、とても大人しい人見知りの激しい子ども時代を過ごしました。

——小さい頃から歌手を目指していたのでしょうか?レイジュさんが歌に興味を持たれたきっかけは?

レイジュ
特に歌手に憧れたというわけではないんですが、小さい頃から、よく父が山に連れて行ってくれて、そこで“山びこ”に出合いました。最初は自分の声が返ってきたから驚きましたが、次第に発声練習をして、学校で覚えた歌を歌うように。私の原点は“山びこ”(笑)。

——1つの転機となったのが、中学3年生の終わりで優勝した地域の歌謡大会だったんですね。

レイジュ
兄が応募して優勝しましたが、家が貧乏だったので、家計を助けるために中学卒業後は都会に出て働きました。そこから天真爛漫と言われるような性格へと変化して、そんな中、また兄が歌謡コンクールに応募。台湾全土にてロングランで実施された投票での結果、上位にランクインして芸能事務所からスカウトをされました。

——そこから歌手としてのキャリアをスタートされたのですね。台湾での歌手生活はどうでしたか?

レイジュ
当時の台湾では、プロの歌手になるためには免許が必要。国が指定した曲を20曲覚えて、17歳で免許を取得しました。朝、昼、夕方、夜、深夜…、体を壊すほど一日中働き詰めでした。あまりにもハードだったので、ある時外国に行くことに。ここでも国での審査があり、ビジネスパスポートを取得。シンガポール、マレーシア、香港、フィリピンを約2年ごとに回っていましたね。

——1番良かった国は?

レイジュ
香港とシンガポール!香港は麻雀の国!!私の給与はすべて麻雀に消えました(笑)、ってくらいに麻雀が好き。食べ物も美味しいし、レディーファースト、宝石の国ですよ。

——そして、最後に行った国が憧れの日本だったんですね。

レイジュ
両親が日本語を話していたので、子どもの頃から日本語を聞いて育ちましたし、母が日本が大好きで、日本の良い話を沢山教えてくれました。さらに、石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」に心酔して、日本への憧れがより一層強くなりましたね。

デビュー当時を回顧

ーー2011年に日本で念願のデビューを果たされましたが、デビュー当時は文化や言語の部分で苦労も多かったと思います。

レイジュ
日本語はテレビを観たり、歌詞を通して覚えました。日本語は今も勉強中。自分が伝えたい思いを違った解釈で受け取られる時もあるので、もどかしい思いをすることもあります。それに突然言葉が出てこない時もありますしね。あと、私は日本の文化が好きで、特に祭りが大好き。毎月何かしらイベントがある、さすが世界一働き者の多い国だなと、いつも感心しています。それに皆、親切で優しいですね。日本に慣れるまで大変でしたが多くの人に支えられ、助けられてきました。私は人との縁に恵まれているとつくづく思うんです。

——前向きでチャンレンジャーな性格のレイジュさん、コロナ禍でもいろんな資格を取得され、さらに2022年から心機一転、拠点を東京に移されましたね。

レイジュ
今アシスタントMCをさせて頂いているBS12「三沢あけみのお茶会歌謡界」でも、ゲストの皆さんからいろんなお話しを聞き沢山学ばせてもらっています。そして先輩方が良い方ばかりで、私は幸せ者ですよ。 苦労しているのは、皆同じ。 私も先輩方のようにもっと、もっと頑張っていきたいと思っています。2023年4月からは山形放送、岐阜放送、青森放送の3局ネット「レイジュの噂の歌謡曲」のレギュラーも始まるのでワクワクしています。

——最後にファンの皆さんにメッセージをお願いします。

レイジュ
まずは「大阪なみだ雨」をヒットさせたいです。そして皆さんの前で生歌を聴いてもらいたいですし、もっとステージを観てもらえると嬉しいですね。あと、私が作詞した「ママ…我愛妳(ウォーアイニー)」を弾き語りで歌えるように、今はギターを練習中。早く皆さんに聴いていただけるように…頑張りますね。

インタビュー・文・撮影/ごとうまき