【野中さおりロングインタビュー】来年でデビュー35周年!これからはもっと、自分の色を出していきたい

野中さおり
アーティスト
来年でデビュー35周年となる野中さおりが11月中旬に来阪し、インタビューを実施。ますます歌声に艶と深みを増した野中さおり。2022年3月2日に発売された新曲「雪すみれ」について、さらに34年の歌手生活を振り返り、彼女の軌跡と今後についても語ってもらった。

新曲「雪すみれ」について

——「雪すみれ」の詞は、20数年前に松井由利夫先生によって書かれたもの、さらに曲は岡千秋先生が20数年ぶりに手がけられたとのことですね。
野中
20年前に作詞家・松井先生から直接いただいた作品なんです。当時、この世界で頑張っていけるのかな?と悩んでいた時期で、そんな私の姿を見て、松井先生が「自分が歌いたい時に歌ってくれていいよ」と、私の10年、20年後をイメージして書いてくださいました。当時、私はまだ若くて、歌詞の意味を解釈しきれていなかったのですが、“夢を諦めないで”という先生の温かなメッセージが感じられ、感動しました。すみれって、小さくて可憐ですが、アスファルトの隙間にも咲いているような花。すみれのように、厳しい環境の中でも、どんな場所でも、自分が咲くべき時にはきちんと花を咲かせるような歌い手になろうと決意しました。あまりにも大切すぎて表に出せず、お守りのように20年間大切に大切に持っていた詞です。
——どうしてこのタイミングで出されたのですか?
野中
これまで新曲の話が出るたびに、自分の宝箱を出しては戻して、繰り返し気づけば20年経ってしまいました。来年35周年を迎えるにあたり、もうひと踏ん張りしたいのと、先生のお力をお借りして背中を押してもらいたい!という思いで、出させていただきました。この歌詞にはエールも込められています。応援してくださる皆さまにも伝わるような温かい歌として伝えていきたいです。
——曲を最初に聴かれた時、どのように感じましたか?
野中
岡千秋先生に曲を書いていただいたのも20数年ぶりとなります。曲を聴いたとき、難しい、と思ったと同時に、大好きな世界だ!って。私の代表曲「雪国恋人形(岡千秋作曲)」を彷彿とさせるような、和の世界を表現していけたらと思いました。先生は、私の高音を活かせるように、語りも多く入れられるように書いてくださっています。歌うというよりも、松井先生の書いてくださった言葉を伝えるようにできたら。

聴いてくださる方への応援歌になれば

——レコーディング時や、実際に歌ってこられていかがですか?
野中
歌っていて、自身の34年の歩みとオーバーラップするところはあります。自分へのエールだと思いながらも、ステージに立ってマイクを持つと、おこがましいのですが、皆さまへの応援歌になってほしい、どうか伝われ〜!って思って歌っています。レコーディングでも岡先生がずっと歌うな、歌うな、とおっしゃっていました。遠くにいる人、目の前にいる人ではなく、隣りに座っている人に囁くように、語りかけるように意識しています。

カップリング曲『夢かんざし』について

——青森県を舞台に描かれた『夢かんざし』も里村龍一先生が20年前に書かれた詞なんですね。
野中
『遠い海峡』を里村先生に書いていただき、そこから私のことを気に掛けてくださっていました。私が悩みを打ち明けたわけではないのですが、きっと先生方も、感じ取るものがあったのかもしれません。“もし、歌の世界がダメになっても、リヤカー引いてラーメン屋やるくらいの気持ちで居れば頑張れるぞ。”など、言ってくださったり。この歌詞も里村先生からのエールだと。涙しながら詞を読ませていただきました。
——歌う上で気をつけていらっしゃることは?
野中
私がここ数年間しなかった歌い方で歌っているので、この曲で新たに勉強をさせてもらいました。アンコの部分も、本当は一番の歌の前にくる予定でしたが、より印象的にするために、アンコを一番の後に持ってきたりと、岡先生が試行錯誤して作ってくださいました。歌詞の頭の”桜吹雪が”の部分も、しゃくらないように意識。歌詞がそれぞれの人生と重なるのか、サークルでも「夢かんざし」を歌ってくださる方が多いです。

来年でデビュー35周年、これまでの歌手生活を振り返って

——物心ついた時から歌が好きで、歌手になろうと思われていたのですか?
野中
演歌歌謡が好きな母の影響で、物心ついた時から演歌を歌っていました。また、近くの親戚が民謡教室をしていて3歳くらいから行っていたので、歌うことは自然と生活の中にありました。小学校5年生ぐらいの時に栃木放送主催のカラオケ大会に初めて出場したものの、予選落ち。もう悔しくて、悔しくて。そこでハングリー精神が芽生えたのか、よく地元の大会に出るようになりました。そして中3の時に母が勝手に応募のハガキを出して「スターは君だ!ヤング歌謡大賞」に出場。母のために頑張って出た初めてのオーディションでした。
16歳で芸能界デビューし、34年間の道のりの中では、多くの葛藤や苦悩もあったという。
野中
歌手や芸能界って華やかなイメージがありましたが、自分の一曲を聴いてもらい、覚えてもらうだけでも、こんなに地道な作業をしなくてはいけないことに驚きました。ポスターやジャケット写真で私のイメージが勝手に一人歩きして、実際にお会いした方には‟イメージと違いますね”って言われたりすることに戸惑った時期もありました。この世界に自分でない自分がもう1人いるような気がして、当時は葛藤がありましたね。
——いつ頃からそのジレンマは解消されましたか?
野中
私は不器用なところがあって、時間がかかってしまいました。私の代表作「雪国恋人形」を出したあたりから、少しずつ吹っ切れてきましたね。自分をどう表現していこうかな、という時にお人形が出てきて、当時はお人形が勝手に独り歩き。だからわたしもあまり喋らずに、前に出ないようにしていました。“野中さおりといえば「雪国恋人形」”だと、少しずつカラオケファンの方から認識されるようになり、そこで少しずつ吹っ切れたところはあります。野中さおりであり、一人の人間なんだと。
——普段の野中さんはどんな方ですか?
野中
未だに芸能界にあってないのかなって思っています。それに本当は人前に出るのは苦手。マイクを持つと自然とスイッチが入って、野中さおりになります(笑)。普段は普通すぎるくらいですよ。ネギ積んで自転車に乗って走っているんですから(笑)。母親にも、もうちょっと芸能人らしくしてほしいと言われます。

これからは自分の色をもっと出していきたい

——35周年に向けて改めて意気込みをお願いします!
野中
まさか歌手生活35周年を迎えられるなんて思っていなかった。悩んだ時期もたくさんありましたが、やっぱり力をいただけるのは、応援してくださる皆さま、周りの方の支えなんですよね。デビュー当時は男唄を、『雪国恋人形』から女唄で演歌を歌ってきました。今後は自分の色も出しながら、皆さまの期待を裏切らない中で、新たなジャンルにも挑戦したいですね。例えば粋な男唄や、お座敷で歌うような日本調の歌も大好き。どの歌を出しても‟野中さおり”と言ってもらえるように、力をつけながら、皆さまと一緒に楽しめたらと思っています。
インタビュー・文・撮影/ごとうまき