【太田隆文監督インタビュー】脳梗塞を「笑いと感動」で映画化! 7人分の仕事から一転、病が教えてくれた「人生で大切なこと」

インタビュー

『向日葵の丘 1983年夏』や『朝日のあたる家』など、骨太なテーマを丁寧に描いてきた太田隆文監督が、自身の壮絶な闘病体験を映画化しました。タイトルは『もしも脳梗塞になったなら』。17年間、脚本からプロデュースまで7人分の仕事をこなし続けた結果、脳梗塞、両目半分失明、心臓機能低下という危機に見舞われた監督。一命を取り留めた今、病という「悲劇」を「喜劇」としてスクリーンに映し出した真意を伺いました。

命がけの1週間撮影と、スタッフへの想い

── まず、エンドロールの構成に驚きました。通常はキャストの皆さんが先ですが、本作はスタッフの方のお名前が先に並んでいます。これは、監督の強いこだわりや、病を経験されたからこその変化した思いが込められているのでしょうか?

太田
もちろん、キャスト、スタッフのどちらにも感謝しています。ただ、今回は病人が監督をするという酷なことをしてしまいましたから。特に撮影当時、脳梗塞の後遺症で字がほとんど読めなかったんですね。脳の一部が死んでしまい、読む機能が低下していたので、シナリオが読めない。次は何のシーンだっけ?とスタッフに聞いて回るような状況でした。そんな状況で、あれこれ言わなくても先を読んで動いてくれたスタッフの支えがなければ、この映画は絶対に完成しませんでした。だからこそ、まずスタッフへの感謝を形にしたいという思いが、エンドロールに表れています。


── これまで監督は脚本、プロデューサー、編集など7人分の仕事をしてこられたそうですが、今回は3人分(監督、プロデュース、脚本)に抑えられたとのこと。そして、通常の映画制作は1ヶ月から3ヶ月の撮影期間を要するところを、本作はわずか1週間で撮り終えられたそうですね。

太田
予算や時間の問題もありますが、正直言って、3週間も撮影を続ければ、私が途中で死んでいましたから(笑)。心臓機能が危険値でしたし、体力がありません。朝7時から夜7時で切り上げないと、頭が働かなくなる。普通は夜中までやりますからね。長い一日、休みを挟むとしても1週間が限度だろうと。だったら、1週間で撮れる話にしようと腹をくくったんです。7人分の仕事で3ヶ月ダウンしていたのが、3人分に減らしたことで、ダウン期間は1ヶ月ほどで済むようになりました。変えなければ、本当に命がなかったでしょう。


── その連続で、ご自身としては、いつかガタが来るのではないかという危機感はなかったのでしょうか?

太田
全くなかったですね。みんなに「太田は不死身だ」と言われていましたから。子どもの頃から大きな病気も入院も骨折もしたことがない。飛行機が落ちてもお前だけ生き残る、とまで言われていて、私もそうだと思っていました。でも、60歳になった途端にやっぱりあちらこちら壊れてきて。矢沢永吉さんが「人間ね、60後半になるとまずいですね」と言っていたのを、私はお金をかけて健康管理をしていなかった分、60前半で壊れてしまいました。健康な方も、3ヶ月も寝込むような働き方をしていては、いつか倒れるということを改めて伝えたいです。

サラリーマン社会の断絶と、女性の社会性

── 映画化の動機の一つに、「脳梗塞の具体的症状を知る人が少ない」という危機感があったそうですね。監督自身も発症するまで具体的なことはご存知なかったと。

太田
脳梗塞は年間10万人、10年で100万人が発症するにもかかわらず、ほとんどの人が具体的にどんな病気か知らない。もっと早く気づいて対応していれば、両目の失明は防げたかもしれないんです。なんでこれをテレビや新聞が扱わないんだろうか。あまりにも多すぎて、当たり前になってしまっているんですよね。この経験を映画にして、一人でも多くの人が僕と同じ後悔をしないようにしたい、という強い思いがありました。


── 劇中では、主人公が病状を訴えても、サラリーマンの友人は「お前が病気?笑わせるな」と信じてくれないシーンがありました。この「病気への無理解」は、現代社会の象徴のように感じました。

太田
実際に、映画界の友人は見舞いに来てくれましたが、サラリーマンの友人は一人も来てくれませんでした。彼らにとっての病気は、「風邪」か、「上司に休むと言い訳できるもの」程度なんです。目が見えない、脳が死んだと言っても、声が元気だと「風邪」だと判断する。彼らは会社で人間性を日々奪われている。「人間性を捨てよ」という昔の言葉のように、上司や取引先に言われたことを考えずにただ遂行する「ロボット人間」になってしまっている。だから、私がどんなに深刻な病状を訴えても、彼らにとっては「刺さらない」んです。


── その流れで、男性と女性の社会性の違いについての鋭い指摘がありました。

太田
女性は、夫、子どもの先生、PTA、近所の人、八百屋さんなど、多様な人間関係の中で、それぞれ違う対応方法を求められ、相手の立場を考えている。一方、多くの男性は上司と取引先との付き合いだけ。だから家に帰ると、家族の苦悩を客観的な「社会評論家」のように語ってしまう。妻は「何この人」、子どもたちは「親父分かってねえな」となる。この夫婦の差が広がっていくのは、病気になって考える時間ができたからこそ気づいた、本当に鋭い社会の断面だったと思います。「男どもはね、女はわかっていないと言うけれど、お前の方が分かっていない」と。


── お母様への思いも強く描かれており、グッときました。

太田
主人公と同じように、私も親が何か言ってきて「うるせーな」という状況でした。それが、実際に誰も助けてくれない孤独な状況になった時、昔、母が送ってきて食べずにいた缶詰を見つけるんです。買い物にも行けない。映画の仲間は忙しいから家まで来てくれない。そんな時、あの「うるせーな」と思っていた缶詰を食べて生き延びた。母親だけじゃなく、Facebookの友達もそうですが、人間ってそういう人たちに支えられてきているんだ、ということを病気をしたことでより強く感じました。作品を通して、感謝の思いを伝えられたと思っています。全て本当の話ですからね。

SNSの「光と闇」と、真の支援者たち

── 闘病中、SNSを通じて多くの人からアドバイスや支援が寄せられた描写もありました。的外れな助言や嫌がらせがある一方で、会ったこともない人からの食料支援もありましたね。

太田
SNSには非常にプラスの面とマイナスの面がありました。最初は、親切のつもりで「これした方がいい」「ここに連絡すべき」といった助言が山ほど来ましたが、これが100%外れる。意地悪ではないんですが、勘違いや記憶違いに基づいている。役所などに問い合わせても「そんな制度はやってません」となる。ただ振り回されて一日が終わってしまう。


── その的外れな助言をする人たちの背景を、監督は「無力感」と分析されていましたね。

太田
彼らの多くは、会社などで「俺がいなくても誰も困らない」「生きていなくてもいいんじゃないか」という無力感を抱えています。そういう人たちが、困っている監督を見て「何かしてあげたい」「ありがとうと言われたい」という無意識の思いで、情報提供という形で自分の存在意義を感じようとしているんです。これは社会の悲しい一断面かもしれません。


── 逆に、孤独死を回避できたのは、SNSを通じた意外な人たちからの支援だったとのこと。

太田
都会の一人暮らしで、近所付き合いもない。そんな中で、Facebookの友達が「これはヤバい」と気づいてくれ、会ったこともない人たちから食料が次々に送られてきた。あれは全部、実際に送られてきたものを撮った本物の写真です。今の時代は、昔ながらの家族や親戚付き合いだけではフォローできない個人がたくさんいる。SNSが、人助けのネットワークとして役に立つんだということに気づきました。


── では、本当に役に立つ情報はどこから来たのですか?

太田
2〜3ヶ月経ってから来た情報です。それは医師、看護師、介護士、そして実際に病気を経験した人や障害者の方々からでした。彼らはプロ意識があり、私の状況を見て「これじゃないな」「これなら役に立つ」と見極めてから伝えてくれる。健康で元気な人たちの手助けは役に立たなかったのに、病気で苦しんだり障害を持った人たちに、私はすごく助けられたということです。彼らは同情されたくないから、普段は障害者だと明かさずに接している。しかし、同じ苦しみを抱えてきたからこそ、私を放っておけなかった。


── 劇中の喫茶店で、視覚に障害のあるスズメさんと会うシーンがありますが、あれは現実でも起こったそうですね。

太田
撮影後に、映画のシーンが現実になったんですよ。スズメさんが旦那さんの車に乗って、うちまでお米を届けに来てくれたんです。その時、彼女は「自分が障害者だと言っちゃうと、みんな同情して何も言ってくれない。だから普通に接してもらえるように隠している」と教えてくれました。佐野史郎さんの役のモデルになった方も目が見えない方ですが、彼らのような障害を持つ人たちに、私は本当に支えられ、教えられました。

悲劇を喜劇で描くチャップリンの精神と、新しい使命

── シリアスなテーマにもかかわらず、劇中ではマンボの音楽が流れるなど、全体にコミカルなタッチが散りばめられています。

太田
従来のこの種の映画は、お涙頂戴になりがちです。しかし、60過ぎた親父の闘病をシリアスに描いても、誰も感動しないし、共感は「自業自得」で終わってしまう。どうしようかと悩んだとき、チャップリンやハロルド・ロイドといった喜劇を思い出したんです。彼らは悲劇的な状況を喜劇として描くことで、観客を笑わせながら、その奥にある悲しみに彼らは気づかせてくれる。


── 主人公が死神とチェスをする夢のシーンでは、監督自身の「エンタメか社会派か」という悩みが表現されていました。

太田
スピルバーグのようなエンターテイメントを目指していた私が、近年社会を描く作品に惹かれ、映画の役割とは何かを悩んでいた。その悩みが、病気の夢の中で死神に問い詰められる形で出てきたんです。そして、佐野史郎さん演じる人物の「そういう娯楽のための映画じゃない。障害者の映画を作ろう」という最後のセリフに繋がる。病気を通して、単なる娯楽ではない、「生きていく上で大切なこと」を伝えるのが自分の役割だと再認識しました。


── キャスティングについてですが、主演の窪塚俊介さんは、師匠である大林宣彦監督の作品に出演されていたことが決め手の一つだったそうですね。佐野史郎さんは、かねてから出演を熱望されていたとか。

太田
私は大林監督の弟子なので、大林組作品に出ていた役者さんなら、きっと太田組作品にも合うだろうと。そんな中で、わがままな40代の映画監督という役を考えた時に、窪塚くんがいいのではないかと。たまたま彼も脳梗塞の経験があった(軽症ですが)と聞き、そこから始まりました。佐野史郎さんは、以前から大ファンで何回もお願いしていたんですが、ようやく今回叶いました。佐野さんと、死神役の奈佐健臣さんは、実は状況劇場の同期なんです。その辺りの、昭和40年代の劇団出身の役者さんに出てもらうと、こちらも嬉しいし、映画が盛り上がるんですよ。


──劇中の舞台挨拶で話していた“ウォーレン・スパーン”のエピソードは、これまで7人分の仕事をこなしてきた監督が、初めて「人に頼ること」を受け入れた瞬間のように感じました。

太田
一人で何でもこなす「器用貧乏」としてやってきましたが、今回の病気で「もっと頼ることが大切だ」と気づきました。優秀なスタッフやキャストの力を借りてこそ、僕にはない発想やアイデアが生まれる。ウォーレン・スパーンも人に頼ることで、より業績を上げたんです。この「人に頼ること」の大切さは、映画だけでなく、人生のあらゆる立場の人に言えるテーマだと感じています。そこに辿り着けたことが、病気への対応だけでない、この映画の重要なテーマです。


── 最後に、現在の病状と、今後の活動について教えてください。

太田
私はものすごく幸運でした。脳の死んだ部分が手足ではなかった。これが車椅子だったら、監督業はできなかったでしょう。目も奇跡的に半分だけ見えるようになりました。また再発するかもしれませんが、今回の病気は、今まで気づかなかった大切なことに気づかせてくれました。神様は、この経験を多くの人に伝えるために、私にもう少し時間をくれたのかもしれないと思っています。本当に役に立つ大切なものを、これからも作り続けたいです。

12月20日(土)より全国順次公開

大阪第七藝術劇場12月27日(土)~

兵庫キノシネマ神戸国際12月20日(土)~

京都アップリンク京都1月30日(金)~

映画『もしも脳梗塞になったなら』公式サイト

インタビュー・文・撮影:ごとうまき