【インタビュー】佐橋佳幸が語る名曲たちが纏う“新しい服”と、音楽の遺伝子の継承

J-pop

日本のポピュラー音楽が大きな転換期を迎えた1970年代。その中心地の一つであり、今日の世界的なシティ・ポップ・ブームの源流ともなった伝説のレーベル「PANAM(パナム)」が、2025年に誕生55周年を迎えた。かぐや姫、イルカ、細野晴臣……、数々のスタンダード・ナンバーを世に送り出してきたこの歴史的レーベルの扉を今、一人の音楽家が再び開く。

その人の名は、佐橋佳幸。数々のミリオンセラーに携わり、日本の音楽シーンを最前線で支え続けてきた彼が、自ら「火元責任者」を名乗り始動させたのが、リメイクカバー・プロジェクト『PANAM 55/100 SUPER SONG COVERS』だ。

「主役はあくまで楽曲」と語る佐橋氏。彼はなぜ今、自身が多感な時期に浴びるように聴いたというパナムの楽曲を、現代のアーティストたちと共に再構築しようとしているのか。盟友・Dr.kyOnとのユニット「Darjeeling」をサウンドプロデューサーに据え、徹底的に「いい歌」と「グルーヴ」にこだわった制作の舞台裏、そしてレジェンドたちとの交流から見えてきた「音楽の普遍性」について、熱く、深く語っていだきました。

「火元責任者」の原体験、ラジオとラジカセが教えてくれたもの

――今回のプロジェクト、発案は佐橋さんご自身だったと伺いました。まずはこの企画が動き出した経緯から教えてください。

佐橋
もともとは、僕とDr.kyOnくんのユニット「Darjeeling(ダージリン)」で日本クラウンの中にレーベルを作って、いろいろ作品を出していたんです。そんな中でスタッフと打ち合わせをしているうちに、「2025年にパナムが55周年、そして“昭和100年”を迎える。このタイミングで今の世代にパナムの良さを伝えていくのはどうだろう」という話になりまして。言い出しっぺは僕だったと思います。

――佐橋さんにとって、パナムというレーベルはどのような存在だったのでしょうか。

佐橋
僕の世代で言うと、中学・高校時代に一番音楽にのめり込んでいた頃ですね。当時は深夜放送全盛期。友達と「昨日のラジオ聴いた?」なんて話すのがコミュニケーションのすべてでした。僕はもともと洋楽オタクで、湯川れい子さんの『全米トップ40』に夢中だったんです。 

でも、ラジオをいじっていると日本の曲も流れてくる。クラスの連中はみんな、かぐや姫を聴いていて。僕はギターを始めたら意外とすぐに上達したもんで、「『22才の別れ』弾いてよ」なんて頼まれて弾いてあげたりしていましたね。

――洋楽少年が日本のパナム作品に本格的に心奪われたきっかけは?

佐橋
決定的だったのは、鈴木茂さんの『BAND WAGON』です。「日本にもこんなに面白いものがあるのか!」と衝撃を受けました。そこからティン・パン・アレー周辺、細野晴臣さんや大瀧詠一さんの世界へバーッと入っていったんです。 中学2年の時には、渋谷の楽器店に来たシュガー・ベイブをライブで見ました。子供だからアルバムは買えなかったけど、シングルの『DOWN TOWN』だけは手に入れて。解散後に山下達郎さんや大貫妙子さんがソロを出し始める。まさにパナムは僕にとって、音楽を通じた友情やコミュニケーションを生んでくれた場所そのものなんです。

「楽曲が主役」名曲に纏わせる“令和の服”

――今回のプロジェクトは「楽曲が主役」というテーマを掲げています。選曲やキャスティングのこだわりは?

佐橋
 今のシティ・ポップ・ブームのきっかけの一つは、大貫妙子さんのアルバム『SUNSHOWER』だったりしますよね。パナムには、スタンダードとして残るべき質の高い楽曲が本当にたくさんある。それをどう表現するか。 まず第1弾の『僕の胸でおやすみ』。かぐや姫同様九州出身アーティストということもあり、藤井フミヤくんにお願いしました。パナムの重鎮である南こうせつさんに、この件をご報告させていただいたら「俺も混ぜてよ!」なんて言って結局一緒に歌ってくれることになりました。和気あいあいとした、素晴らしいスタートでした。

――続く第2弾、第3弾も非常にユニークな組み合わせですね。

佐橋
第2弾の鈴木茂さんの『LADY PINK PANTHER』は、僕がプロデュースしている若手バンド「GOOD BYE APRIL」に、南佳孝さんをゲストに迎えました。佳孝さんはボーカルの倉品翔くんに「茂はこう歌っているけど、ここはこうしよう」と熱心に指導してくれてね。佳孝さんご自身も楽しんでくれたみたいで、配信日には「パリにいる娘から『お父さん、なんか配信されてたよ』ってメールが来たよ」なんて連絡をくれました。

佐橋
第3弾の『さよなら人類』(たま)は、「え、この曲もパナムだったの?」という驚きから選んだんです。これをパナム所属の鈴木実貴子ズが歌い、kyOnさんのプロデュースでデビューしたBLACK BOTTOM BRASS BANDと共にニューオリンズ・スタイルで鳴らす。このレコーディングでは面白い偶然があって。エンジニアの飯尾芳史さんが、実は35年前のオリジナルの「たま」も担当していたんです。歌入れの最中に飯尾さんが「いや、オリジナルを録った俺が言うんだから間違いない。そこは譜割りが違うよ」なんて言って(笑)。まさに歴史がつながった瞬間でした。

デジタル時代に失われた「グルーヴ」を求めて

――第5弾の『都会』では、槇原敬之さんが大貫妙子さんの名曲を歌っています。ファンにはたまらない、特別なテイクですね。この豪華な共演はどのように実現したのですか?

佐橋
 昨年、イベントのリハーサルで大貫さんとこの曲を練習していたら、槇原くんが僕の耳元でずっと『都会』を歌ってたんですよ(笑)。彼は本当に大貫さんのファンで。それで直談判したら「僕が歌っていいの!?」と喜んで引き受けてくれました。 

この曲では「エレキ・シタール」という楽器を使っています。70年代のソウルミュージックでよく使われていた楽器で、これで“都会の夜の感じ”を表現したかった。大貫さん本人も途中から入ってくれて、槇原くんの歌を聴いて「ここはもうちょっと言葉を置いて歌って」とアドバイスをくれた。

――今の若い世代もサブスクを通じてこうした古い名曲を聴いていますが、佐橋さんは今の音楽シーンをどう見ていますか。

佐橋
最近の音楽を聴いていて、ある人が「歌には違いないんだろうけどいい歌(物語としての歌)が少ないね」と言っていたのが印象的でした。今はミュージックビデオが前提だけど、パナムの時代の曲は音を聴くだけで情景が浮かぶんです。

 もう一つ、今の音楽には「グルーヴ」が足りない。打ち込みで何でもできてしまうから、ドラマーがいないバンドも増えている。でも、ビートルズもストーンズも、すべてはドラマーが作るグルーヴから始まっていた。パナムの楽曲には、今の音楽が失いつつある「人間味」や「不自由さゆえの工夫」が全部詰まっているんです。

黄金期の目撃者として、老人介護……ならぬ「先輩介護」の矜持

――佐橋さんは、パナム所属ではありませんが大瀧詠一さん、山下達郎さん、坂本龍一さんといった、まさにパナムが黄金期を築いていた頃の音楽シーンのど真ん中にいらっしゃった方々と共演されています。

佐橋
 よく冗談で「僕の仕事は老人介護(先輩介護)だ」なんて言ってますけどね(笑)。でも、僕は彼らが影響を受けた洋楽も全部聴いて育ったから、話が通じるんです。ティン・パン・アレーの再結成ツアーに呼ばれた時も、細野さんに「佐橋くん、譜面全部用意してくれる?」なんて頼まれて。「北京ダック」を演奏したら、細野さんが「僕、こんなフレーズ弾いた覚えないよ」って言うから、「いやいや、CD聴いてください、弾いてますから!」って返したりね。

――それは佐橋さんにしかできないことですよね。

佐橋
僕は結局、憧れていた人たちほぼ全員と仕事をすることができました。彼らが当時、どれほど高い志と探究心を持って、限られた機材の中で質の高いものを作っていたか。パナムというレーベルが、演歌や歌謡曲ではない「新しい音楽」をメジャーのフィールドで守り抜いた功績は計り知れません。

相棒・Dr.kyOnとの絆、そしてこれからのパナム

――サウンドプロデューサーのDr.kyOnさんとは、このプロジェクトでも最高のコンビネーションですね。

佐橋
 kyOnさんは京都大学出身の超エリートだけど、ボ・ガンボスでアコーディオンを弾きながら踊る姿を見て「なんだこの凄い人は!」と衝撃を受けたのが出会いでした。彼はリズムパターンを踊りと一緒に覚える人でね。知識量も膨大だし、阿吽の呼吸でプロジェクトを支えてくれています。

――プロジェクトはこれからも続いていきますが、今後の展望を教えてください。

佐橋
 とりあえず1年は続けようと思っています。第6弾以降も乞うご期待……!パナムの楽曲は、作者が「こんな風にしてほしくなかった」と思わないような、堂々としたリメイクをしていかなければならない。質の高いものをちゃんと残しておけば、必ず再評価される。それをパナムの歴史が証明しています。このプロジェクトを通じて、パナムの偉業を数々の「名曲」を通じて改めてもう一度みなさんに知ってほしいですね。

インタビュー後記

「火元責任者」を自称する佐橋さんの言葉には、自身を育ててくれた音楽への深い敬意と、それを次世代へ繋げようとする強い使命感が溢れていた。最新のデジタル技術を使いながらも、あえて人間の内面の揺らぎや時代のエッセンスを注入するその手腕。パナム55周年の灯火は、彼の手によってさらに熱く、新しく燃え広がっていくだろう。

インタビュー・文・撮影:ごとうまき