【監督インタビュー】生涯150冊超の著作を残した巨匠。妻への愛とアジアへの情熱が交錯する『佐藤忠男 映画の旅』

インタビュー

『佐藤忠男 映画の旅』が2025年11月1日(土)より新宿K’s cinemaほか全国で順次公開中です。生涯にわたり映画を愛し、日本映画史の体系化やアジア映画の発掘に尽力した孤高の映画評論家、佐藤忠男(2022年逝去)。本作は、彼が学長を務めた日本映画学校(現・日本映画大学)の教え子である寺崎みずほ監督が、その知られざる素顔と、彼を突き動かした情熱の源泉を探るドキュメンタリー。関西での映画の公開を前に、監督に佐藤忠男の人物像、そして映画製作の道のりについて詳しくお話を伺いました。

映画学校での出会いと監督の原点

── まずは、この佐藤忠男さんのドキュメンタリーを制作されたきっかけについて伺います。寺崎監督は、実際に映画学校で佐藤先生の授業を受けられていたそうですね。先生はどのような印象でしたか?

寺崎
私が2007年の入学で、その時すでに佐藤先生は77歳くらいでした。映画学校は階段しかなくて、先生は4階の大教室まで上がってきて授業をされていたんです。今考えると、すごい体力ですよね。授業中はマイクを握って、ずっとあの骨太な体格で立っていて、とうとうと話されるんです。すべて頭の中にあるようで、その知識量に圧倒されました。最初は寡黙で顔も少し怖かった印象です。でも、映画の話をしている時は本当に楽しそうで、言葉がどんどん湧き出てくる。その様子を見ていると、どこか少年のような、研究者特有の純粋で可愛らしいところがある方だと感じました。ただ、普段は怖くて話しかけられなかったですね。今思えば、もっと色々な話を聞いておけばよかったと後悔しています。

── 監督が、そもそも映画学校に入られたきっかけは何だったのでしょうか?

寺崎
高校まではバレーボールをしていて、その合間に映画を見ていたという ただの映画ファンでした。大学に行った時に「映画関係の仕事ができたらいいな」と思いながら英語を学びました。でも、そこで映画の見方を教わったんです。例えばイギリス映画からは、イギリス文学やイギリス人の文化や階級など色々なことが見えてくるのを習った時はとても面白かったですね。もう少し専門的に学びたくて、もともと写真も好きだったので、映画の現場で働くことに興味を持つようになって、映画学校に入りました。その時は監督になりたいというより、とにかく映画の話をできる人たちと一緒にいるのが楽しそうだと思って、そこへ飛び込みました。

取材開始の衝撃と妻・久子さんの存在

── 卒業されてから数年後、2019年に再会し、取材を申し込まれたのですね。取材をしたいと思われた具体的なきっかけ、佐藤さんの言葉を教えていただけますか?

寺崎
2019年の5月に取材させてくださいと会いに行ったのが最初です。それまでもちょこちょこお会いすることはありましたが、ちゃんと話すのはその時が初めてでした。最初は当たり障りのない質問をしていたんですが、一つ終わりかなと思ったらいきなり佐藤さんが姿勢を正して、「僕が言いたいのは、映画から学んだことは、気位の高い女性にうやうやしく接し、その女性から受け入れられることだ」と言い放ったんです。どうしちゃったんだろう、こんなこと言って、と(笑)。訳が分からないって感じになりました。その時、佐藤さんの姪御さんの友実子さんから、彼が25歳くらいの時に書いていた日記を渡されました。その中に、久子さんへの片思いのこととか、映画批評への悩み、「俺の映画批評はもうマンネリだ」といった苦悩が綴られていたんです。特に「映画批評なんて弱い者いじめみたいだ」「俺はもっともっと弱い奴のくせに」という一文がずっと引っかかっていて、ここに佐藤さんの核となる誠実さや純粋さが見えたんです。そして、話をしてみると、彼は本当にいろんな話を隠すことなくしてくれました。私の目を見て、私が分かる言葉で話してくれる。途中で冗談を言ったりして、気を遣ってくれる人でした。

── 映画の中で、奥様の久子さんの存在は非常に重要ですが、どのように描こうと決断されたのですか?

寺崎
当時の1930年代生まれの方からすると、女性が働くのはかなり特殊で、見方によっては「久子さんが佐藤忠男に尽くしすぎている」と保守的に見られはしないかという不安も正直ありました。しかし、たまたまお家を整理している時に、NHKのラジオ番組のテープが出てきたんです。その中で久子さんと佐藤さんが、アジア映画を見つけた喜びや、『魔法使いのおじいさん』のアラヴィンダン監督への熱狂的な想いを、とても楽しそうに話している声が録音されていたんです。これだ!と。久子さんの声も良くて、二人がいかに喜びを分かち合っていたかが目に浮かびました。これは久子さんの意思でもあったんだ、そして佐藤さんから久子さんへの熱烈なラブレターのような愛情も感じられる。これなら二人が時には喧嘩しながら、互いを高め合った姿として描ける、と確信しました。ラジオ番組のテープに出会ったことは、本当にラッキーでした。久子さんの話を構成する上で欠かせない“たからもの”でしたね。

── 取材をしたいと伝えられた時の、佐藤先生の反応はいかがでしたか?

寺崎
最初は「僕なんかのドキュメンタリー、面白くなるのかな?」みたいな感じでした。映画評論家のドキュメンタリー自体があまりないですからね。でも、嫌とは言わず、話をされるのが好きな方なので、全然大丈夫でした。途中で何回か行った時に、ちょっと嬉しそうに、「僕もようやく研究される人間になったな」と言われて。あ、嬉しいんだ、と。そういうのは隠さない人でしたね。

── 実際にお話をされていたのは、2019年から2020年の1月くらいまでで、その後コロナ禍になってしまったそうですね。

寺崎
2020年の1月くらいまでが集中して撮れた時期で、その後コロナになって施設に入れなくなってしまいました。忠男さんも外に出られないし、リモートでやったり、面会室で1時間だけとか、かなり限られた時間になってしまいました。コロナ禍で映画館もやっていない状況で、「じゃあ、今佐藤忠男に何を聞くんだ」というのも、結構質問しづらかったですね。

アジアへの眼差しとインド映画の魔法

── 佐藤先生はアジア映画の発掘・紹介にも尽力されました。監督は先生の死後、アジアの地へと旅立たれます。特にインドの旅は印象的でした。アジアに目を向けた経緯を教えてください。

寺崎
一番最初に取材に行った時に、佐藤さんが書かれた『アジア映画探訪記』を読み、映画と各国々の歴史や政治的なものが絡み合って映画が生まれてきたという描写に引き込まれました。ただ、インタビューだけでどこまで伝わるのか不安もあったんです。その不安を打ち消してくれたのが、台湾の映画人へのインタビューでした。実際に台湾人の口から「台湾人は本当に佐藤さんに感謝している、信頼している」と、具体的な理由を語ってくれた時、インタビューだけでも佐藤さんの仕事の広さは伝わるだろうと確信を得ました。その後、佐藤さんが唯一、外国人監督として伝記を一冊丸ごと書いたイム・グォンテク監督に会うため韓国へ。そして佐藤さんが「世界で一番好きな映画」と語ったインド映画『魔法使いのおじいさん』の舞台、ケララ州へと旅立ちました。

── インドの旅では、奇跡的な偶然が重なったそうですね。

寺崎
インドの旅は初めてで、クルー3人で臨みました。当初は何を撮るか明確に決まっていなかったのですが、シャジ・N・カルンさんという元撮影監督が、知り合いを辿って『魔法使いのおじいさん』の愛好家を見つけ出してくれて、彼が偶然にも数年前に元子役たちを探していたという、運命的な幸運が重なりました。さらに、私たちが現地に行く前に、マーティン・スコセッシ監督が率いる財団が、この映画をデジタルリマスターしていたんです。シャジさんもそのために現地を訪れていたので、記憶が新しく、本当に助けられました。

── 実際にケララ州を訪れて、『魔法使いのおじいさん』への印象は変わりましたか?

寺崎
不思議な土地でした。市は発展しているのに、街の半分は木々に覆われている。その中で人々はエネルギッシュに働き、信号がない道を渡るにも、自分の判断で動かないと生きていけないという本能的な部分を覚醒させられるような世界でした。祭りなどの土着的な文化が強く残っていて、ヒンドゥー教も習慣の一種のように自由な雰囲気がある。そうしたものを経験してからもう一度『魔法使いのおじいさん』を見た時に、「本当それだ」と思いました。

寺崎
この映画は、子どもが選挙や制度について学ぶ現実的なシーンがある一方で、犬に変身するといったファンタジーも簡単に起こる。土着的な文化とそれを歌に乗せて記録する素朴なアプローチの中に、アラヴィンダン監督の思想が詰まっています。そして、元子役たちが映画を語る時、ふっと無邪気な子どもの顔に戻るんです。佐藤さんが映画の話をする時に見せる、あの少年の顔とどこか重なる。映画は、彼らにとって楽しく踊った記憶のスイッチを押す装置になっている。それは、忠男さんが生涯一途に映画を愛し続けた理由とも通じる、映画のマジックだと感じました。

反骨精神とバトンを繋ぐメッセージ

── 映画を通して見えてきた佐藤先生の人物像で、最も監督が影響を受けていると感じる点は何でしょうか?

寺崎
人格形成に最も影響を与えていると感じるのは、少年期の戦争経験と、そこから生まれた反骨精神です。軍国少年だった彼は、不当な試験で落とされたことや、イデオロギーが敗戦でコロッと変わるのを見て「騙された」というより、「こんなもんか」と呆れたのだと思います。だからこそ、彼は「自分で見たことしか信じない。言わない」という姿勢を貫いた。そして、庶民の目線、インテリには負けないぞという庶民派の根性が強くあったと思うんです。彼は、「社会を作っているのは庶民だし大衆だ」という気持ちが絶対強くあったと思う。そして「好きなことを仕事にするための戦略」としてきちんと計算して実践している。生活力があるんです。好きなことを全力でやるのは本当に大事なことだと、彼の顔を見て改めて思いました。

── 今回の製作で一番大変だったことは何でしょうか?

寺崎
大変だったのは、佐藤さんが偉大すぎて、多岐にわたることを書いてらっしゃるので、どこに絞るかという点でした。佐藤忠男なのにこれをやらないのか、といった有名な方だからこそのファンからの声へのプレッシャーもありました。でも、私はやはり自分が面白そうだという方、熱量がある方に進んだ方がいいという編集の方からの言葉もあり、インド映画の謎を解く旅に注力しました。ロケハンをしていないので、カメラマンは撮影が大変だったと思います。

── この数年を通して、監督自身、映画製作への思いに何か変化はありましたか?

寺崎
映画を作るのは大変だな、と思うと同時に、また映画を作りたいと思いました。今回は佐藤さんの胸を借りて映画を作らせてもらったことで、自分が何を考えているのかをどう映像に乗せられるかを考えました。でも、一番は、私は単純に忠男さんが好きなものを撮りたかった。そこの愛情と熱だけは、私にしか撮れないものが撮れたんじゃないかと思っています。理屈だけじゃなく、心が動くものを見つけたいという思いが強くなりました。

── まさに、佐藤さんの思いのバトンを繋ぐ作品ですね。最後に、もし天国の佐藤先生にメッセージを伝えられるとしたら?

寺崎
 「先生、映画が完成しました。ぜひ見て、感想と評論をお願いします」と伝えたいですね。本当に楽しみにしてくださっていたんです。私が撮ったのは、先生の見栄や飾りが一切なくなった、本当に最後の姿です。そこに残っていたのは、優しさと、久子さんが居ないとへこたれてしまうような、人間としての弱さも含めた真の姿でした。それが撮れてよかった。映画評論は本が残っているので、映画の中ではあえて使わずに、読んでほしいという思いを込めました。佐藤忠男という人間がどういう人だったか。この一人の人生を残せたことは、本当によかったと思っています。

『佐藤忠男 映画の旅』

* 公開日: 2025 年 11 月 1 日(土) 新宿 K’s cinema ほか全国順次公開

* 大阪公開: 12月13日(土) 第七劇場にて公開

インタビュー・文・撮影:ごとうまき