【ロングインタビュー】2024年で芸能生活60周年「五木ひろしが五木ひろしでいられるうちは戦い続ける。」

アーティスト
日本を代表する演歌歌手の一人、五木ひろしさん。数多くのヒット曲を生み出し、その温かみのある歌声や人柄から多くのファンに愛され、今もなお第一線で活躍し続けています。今回は新曲やコンサートにかける思い、五木さんの長年にわたる音楽活動や人生哲学についてお聞きしました。60年近く芸能界で走り続けながら、いまも前進し続ける五木さんのモットーとは何か─── 。

五木寛之先生へのオマージュ曲『だけどYOKOHAMA』で原点回帰

──2023年3月22日(水) に発売された『だけどYOKOHAMA』は、2005年に発売の『五木寛之・五木ひろし作品集〜ふりむけば日本海〜』に収録された一曲。今回アレンジを変えて、新たに収録されたとのことですが。
五木
この曲は五木寛之先生も大変気に入っておられた曲。当時はシングルにするつもりはなく、アルバムの曲として作りました。実は今作の3曲目『時は流れて…』がA面候補だったんです。『だけどYOKOHAMA』はずっと自分の中で印象に残っていた曲。そこで『夜明けのブルース』風にアレンジしてみてはどうだろうと思い、アレンジャーの佐藤くんに編曲してもらいました。聴きやすく、覚えやすく、わかりやすいリズム歌謡となっていて、これだ!と思い急遽A面にしました。
──五木さんご自身も横浜との縁が深いですね。
五木
五木ひろしとして活動する前は、『雨のヨコハマ』(三谷謙 名義)、そして五木ひろしになって出した曲が『よこはま・たそがれ』、10年以上経ってから出した曲が『逢えて横浜』、そして今回は『だけどYOKOHAMA』と、カタカナ、ひらがな、漢字、アルファベットときているから、これで僕の横浜シリーズは完結。この曲を大切にしたいです。曲の中では“もう一度YOKOHAMA”という詞が何度も出てきますが、このフレーズにも大きな意味があるのです。『よこはま・たそがれ』でデビューしたあの頃を思い出し、原点回帰しようと。1970年代から横浜にお住まいの五木寛之先生の横浜に対する愛情、僕の横浜への想いが重なり合うのです。
──そういった思いを聞くと、曲の味わいが一層増しますね。五木寛之先生も大変喜ばれているのでは。
五木
今回の『だけどYOKOHAMA』は、五木寛之先生が90歳になられた卒寿のお祝いも兼ねています。先生とはお互いよく似た名前。距離はあっても頑張ってやってこれたこと、今でも繋がっていることが嬉しいですよね。また同じ年、同じ月にお生まれになった石原慎太郎先生が昨年89歳で亡くなられたのもあって、先生にはより一層頑張ってもらいたいし、長生きしてもらいたいのです。

僕の人生は戦いだった。

──カップリング曲『花ざくろ』『時は流れて…』についてもお聞きします。『時は流れて…』は五木さんが作詞、作曲をされていますが、どのような思いで制作されましたか?
五木
僕の子ども3人も皆結婚し、2人の孫もいます。改めて時代は、時は流れたとしみじみ思います。この曲は、ワンコーラスは自分自身のマイウェイを書いていますが、それ以外は子ども達、孫へのメッセージです。「時代は変化するけれど、志を立てたらひたすら真っ直ぐに歩きなさい」と。詞にある“志を立てよう”は僕の大好きな松下幸之助さんの『道をひらく』から引用しています。最近は聞かなくなった志。僕たちは貧しかったから、偉くならないと勝てなかった。日本を良くするためにも、若い人達には志を立てて頑張ってほしいと思っています。
──歌詞の中にあるように、五木さんもご家族の愛に支えられてこられたのですね。
五木
家族が支えてくれないと世の中には出て行けません。“人という字はお互いが支えあって、人となる”と言いますが、実は戦いなんです。戦ってこそ、人は成り立つと思っています。僕は家族に守られ、家族のためにずっと戦ってきた。戦ってきたからこそ、勝利も得られ、今の自分があるのです。
──『花ざくろ』も五木さんの作曲ですね。
五木
この曲は数年温めていた曲。松竹新喜劇の藤山寛美さんが演じられた名作『花ざくろ』の舞台を2012年に演じさせてもらった時の曲で、詞は水木れいじ先生にお願いしました。今作はリズム歌謡の『だけどYOKOHAMA』、王道演歌の『花ざくろ』、そしてドラマティックな『時は流れて…』のそれぞれタイプが異なる3曲が収録されているので、楽しんでもらえるのではないでしょうか。

コンサートでも望まれた以上のものをお返ししたい。

──そして6月29日は梅田芸術劇場、30日には神戸文化ホールで『五木ひろしコンサート2023』が開催されます。連日のコンサート、五木さんの体力には驚かされます。
五木
僕のコンサートでは2時間の中で25〜26曲は歌います。この間は秋田で数年ぶりにコンサートを行いましたが、お陰様で超満員、大変盛り上がりました。この歳で水一滴も飲まずに25〜26曲を歌うので口パクじゃないのか、って疑われたこともありますが(笑)、僕はいつだってガチンコ勝負。キーの高さも昔から変えていません。五木ひろしが五木ひろしでなくなると終わり。見ている人が“昔は上手かったのにな……”と哀れんだら終わり。そう思われるまで、僕はやり続けます。
──スーツのサイズも昔から変わらないとのこと、体型維持や体力作りについても教えてください。
五木
体重も30代の頃から変わっていないので、スーツを若手に贈る時も直さずに渡しています。体型維持については、日頃ジムに行ったり、鍛えたりなどはしていません。ただ、ここぞという時に10年ほど前に始めたキックボクシングを行なっています。そして犬の散歩で沢山歩くこと、ゴルフもしています。ゴルフはなるべく若い人や息子達と一緒に行って、彼らと競って、常に“張り合う”ことを意識しています。息子達から「お父さん、70幾つにはとても見えないよ。」と言ってもらえることが何よりも嬉しいんですよ。
妻はホームドクター
五木
僕がこうして元気で働けるのは妻のおかげ。特にこの20年、どれだけ妻に助けられたことか。本当に感謝しています。子どもにもお母さんをリスペクトするように伝えていますが、子ども達は“お父さんのような父親になりたくて頑張っています”って言ってくれるんです。嬉しくて余計頑張ってしまいますよね。

コロナ禍は、また歩き出すための準備期間だった

──作曲から舞台公演のプロデュースまで幅広く活動されていますが、今後もいろんな企画を考えておられるのでしょうか。
五木
例えば森繁久彌さん主演の『社長シリーズ』を舞台化してみたいなど、今後やりたい事はまだまだあります。僕は仕事が忙しい方がいいから、キャンペーンだって頼まれて行くのではなく「新曲出したから大阪へ行こうよ」「次は名古屋に行こうよ」と、自分から進んで行っています。のんびりしたいなんて、全く思わないし、ゆっくりでもいいから前進して行きたいんです。
──休まることはほぼないのですね。
五木
五木ひろしとしてデビューしてから休むことなく走り続けてきましたが、コロナ禍になってコンサートなどが中止になり初めて1週間から10日間は休みました。これも天が与えてくれた休養なんだと。しかしこんなに休むと次に進めないし、いつでもすぐに動けるように準備をしておこうと、レコーディングをしたり、YouTube配信をしたり、弾き語りライブをしたりと仕事をしていました。

好きな歌と60年歩んでこれた。これほど幸せなことはない。

── 2024年で芸能生活60周年を迎える五木さん、デビュー時から変わらない信念を教えてください。
五木
僕は戦いと歌が好きなのです。歌というものを好きになり、プロになりました。もちろん苦しい時もありました。だけど、どれだけ売れない時だって道を外さず、他のことを考えたこともありません。“絶対に必ず勝つ、売れるんだ!”という強い信念を持っていましたから。
“人生は勝負。勝負は勝たないと意味がない”これが僕のモットーです。
五木
『全日本歌謡選手権』で勝って、五木ひろしになりましたが、あれは僕にとっての人生最大のガチンコ勝負、死ぬ思いで挑みました。終わった後は精魂尽き果てて、3日間寝込んだほど(笑)。今思うと『全日本歌謡選手権』での経験が後の僕を作ってくれています。あれより怖いことはないし、何があっても五木ひろしがなくなることは無い。だからどんなことにもチャレンジしてきました。歌の道一筋で60年近くやってこれたこと、これほど幸せなことはないと思っています。
── 人間、好きなことだけで生きていくのが一番幸せなことかもしれません。
五木
今、改めて感じることは、望まれることがどれだけ幸せかということ。若い頃は望まれることが当たり前でしたが、当たり前ではありません。人間は望まれてこそ価値がある。こうして望んでもらえることに感謝して、そして望まれたらそれ以上にお返しをしたい。これが僕のモットーで、コンサートでも20曲以上を歌うのはこうした思いがあるからです。五木ひろしが五木ひろしでいられるうちは戦い続けます。

インタビュー・文・撮影/ごとうまき