【滝あつしインタビュー】60歳からの再始動、奇跡の伏線回収

インタビュー

関西エンターテインメント界を支える独立プロダクション「一丁目一番地(株)」代表取締役社長、谷村淳司氏。業界の裏方として31年、数々のスターの歩みを支え続けてきた彼が、2026年4月22日、「滝あつし」の名でCDデビューを果たした。奇しくも還暦という記念すべき年でもある。

芸名の名付け親は、長年マネージャーとして公私をともにしてきた関西芸能界の至宝・浜村淳氏。デビューシングルは直球の王道演歌『おとこ人生夢街道』(作詞:麻こよみ/作曲:岡千秋)、カップリングには吉幾三氏の名曲『通天閣』のカバーを収録する。

一見すると、成功した名物社長の「還暦の記念デビュー」に映るかもしれない。しかしこのデビューの裏には、映画でも描ききれないほどのドラマ——30年越しの「伏線回収」があった。安定した公務員の座を捨て、どん底のアルバイト生活を経て、偶然の導きで裏方のトップへ登り詰めた滝あつし。その波乱万丈の「夢街道」をじっくりお届けする。

安定の公務員から芸能界へ:20代の迷走と、15年ぶりの再会

――滝さんは子どもの頃から歌手を目指しておられたのですか?

それが、全然違ったんです(笑)。小学校の卒業文集の『将来の夢』には『公務員』と書いていましたから。親戚のおじさんが郵便局に勤めていた影響で、高校時代も夏休みや冬休みにアルバイトをして。卒業後にいくつか採用試験を受けたら、受かったのが郵便局だけだった。18歳で入局して、子どもの頃の夢が叶っちゃったんですよ。芸能界を目指すなんて、当時は1ミリも考えていませんでした

――安定の象徴である郵便局員から、なぜ音楽の道へ?

20歳の時、高校の同級生のお母さんから『オーディションに応募しぃや』と勧められたんです。俳優の募集だったんですが、僕は昔から勉強はダメでも音楽の成績だけはいつも一番で、歌が好きだった。どうせなら好きな音楽関係がいいなと思って。ちょうど通勤電車の窓から歌謡教室の看板が見えたんです。地元・大阪の八尾にある教室に通い始めたのが、すべての始まりです

――そこから本格的なレッスンが始まったのですね。

最初の教室に3年半、その後ご紹介いただいたピアノの作曲家の先生のところに3年半。トータル7年、20代のほとんどをレッスンに費やしました。20代後半からは小さなカラオケ大会にも挑戦するようになって……そのうち、ある種の『安定』に疑問を感じ始めた。結局、10年勤めた郵便局を辞めるという大決断をしました

――人生最初のターニングポイントですね。迷いはありませんでしたか?

きっかけは、地元のカラオケ大会での再会でした。小学校の同級生と15年ぶりに会ったんです。彼はある歌い手さんの芸能事務所でスタッフをしていて、飲みに行くうちに『俺、ここ辞めるから、お前あとを継いでくれへんか』と。28歳の時でした。背中を押されるように飛び込んだのですが……現実は甘くなかった。その事務所は、わずか3ヶ月で辞めることになってしまったんです

近鉄特急の奇跡:昭和プロダクション遠山社長との絆

――わずか3ヶ月。大変な時期だったのではないでしょうか。

そりゃあもう。職を失って、アルバイトして食いつなぐ生活です。でもね、その3ヶ月の間に、信じられないようなドラマがあったんです。

まだ郵便局を辞める前、ある方の紹介で、関西の大手芸能事務所『昭和プロダクション』の社長・遠山さんにお会いしたことがあって。浜村淳さんやキダ・タローさんが所属されていた大御所事務所です。『歌手を目指している、郵便局勤めのいい子がいる』と引き合わせていただいたのですが、遠山社長をはじめ、会う人会う人に『郵便局という安定した仕事を捨てて、どうなるかわからん世界に来るもんじゃない。趣味にしときなさい』と諭されて。みんな僕を心配して、芸能界へ引っ張り込むのを躊躇されたんです

――誰もが滝さんの将来を思って、あえて突き放したのですね。

そうなんです。だから結局、同級生の誘いで郵便局を辞めて別の事務所へ行き、すぐに挫折してしまった。郵便局を辞めて事務所に勤めだして1ヶ月ほど経ったある日、奈良へ帰る急ぎの用事があって近鉄特急に飛び乗ったんです。指定された席に着いて、ふと隣を見たら……なんと、あの昭和プロの遠山社長が座っていらっしゃったんですよ

――ええっ! そんな偶然が。

本当に鳥肌が立ちました。僕は当然覚えていますから『お久しぶりです』と声をかけたのですが、向こうは何百何千人と会っているから最初は分からない。でも『郵便局に勤めていた……』と説明したら、『ああ!あの子か!』と思い出してくださって。『今、頑張ってるか?』と聞かれたので、嘘をつかずに『実は……郵便局を辞めて……』と正直に話しました。郵便局を辞めたことに対して『アホやなぁ』と言われましたが、遠山社長は『辞めてしまったもんは仕方ない。困ったことがあったら相談においで』と、改めて名刺をくださったんです

――近鉄特急の隣の席という一期一会が、運命を変えた。

でも、その後本当に3ヶ月で無職になったので、気まずくて自分からは連絡できなかった。そしたら、遠山社長から電話がかかってきて。『風の噂であんたが辞めたって聞いた。一回事務所においで』と。

ただ、前の事務所から引き抜いた形になると角が立つから、『一旦そこで頑張りなさい。タイミングが来たら声をかけるから』と。その年の秋口、『年明けに一人スタッフが辞めるから、裏方としてうちに来ないか』と誘っていただいたんです。『君を歌手としては雇われへんけど、東京から来る歌手のバックバンドを手配する担当なら、業界の繋がりもできる。いつでも辞めて別の事務所に移ったらいいから』。男気のある、本当にありがたいお言葉でした。そうして1995年1月、阪神・淡路大震災の直前の年明けから、29歳で昭和プロの一員になりました

31年の裏方生活:浜村淳氏のマネージャーとして学んだこと

――そこから裏方として、気づけば31年が経ったわけですね。

はい。入社して数ヶ月はバンドの手配をしていましたが、すぐに浜村淳さんのマネージャーを任されました。最初の2年くらいは、正直に言うと『何かチャンスがあれば歌の道へ』という野心を捨てきれずにいたんです

――やはり、歌手への未練が。

ありましたね。でも毎日、芸能界の表も裏も生々しく見ているうちに、歌手としてデビューしていくことの大変さが分かってきた。そして何より、僕を拾ってくれた遠山社長に喜んでもらいたかった。だから2年が過ぎた頃、『一旦、表の道は引き出しの奥にしまい込もう。裏方の仕事に徹しよう』と気持ちを切り替えたんです。無理やり諦めたというより、目の前の仕事に100%集中しようという自然な覚悟でした。仕事で歌手の方々と接したり、音楽に携わったりできること自体に、十分な喜びを感じていましたから

――浜村淳さんのトップマネージャーとして、また経営者として、ご自身の「強み」となったものは何ですか?

自分自身が『いつか表に立ちたい』という強い気持ちを持っていたからこそ、『もし自分がステージに立つなら、今の自分にマネージャーにどうしてほしいか』を常に先回りして考えられた。浜村さんが今、何を欲しているか、どこに手が届いてほしいか——プレイヤーの視点を持って尽くせたことは、裏方としての唯一無二の強みだったと思います

2025年7月、眠っていた運命が動き出す

――裏方に徹して30年。新会社を立ち上げて2年が経った2025年7月、突然、時計の針が動き出します。徳間ジャパンの濱崎さんとの出会いですね。

これも偶然の連続で。去年の7月に、所属の司会者・水谷ひろし氏が担当するイベントの打ち合わせがあったんです。そこに濱崎さんがいらっしゃって。会議はさっさと終わったんですが、その後みんなで食事をすることになった。飲食店の上の階にたまたまカラオケルームがあったんですよ

――打ち合わせの流れで、カラオケへ。

心の中では『えっ、カラオケ?』と半分渋々だったんです(笑)。でも主催者の方が『せっかくやから社長も歌いましょうよ』と仰るので、お付き合いのつもりで1曲歌いました。そうしたら、それを聴いていた濱崎さんの目の色が変わって。『社長、CD出しましょうよ!』とその場で声をかけられたんです

――30年前にしまい込んだ夢の扉が、突然ノックされた時の心境は?

そんなもん、あり得ないでしょ!って思いましたよ(笑)。独立して新しい会社を立ち上げたばかりで、経営を軌道に乗せることで頭がいっぱいでしたから。お酒の席のリップサービスか、素人の中でちょっと歌が上手いね、という褒め言葉の延長だろうと。

でも、僕の昔の夢を知っている水谷ひろしが横で『谷村さん、こんなお話は滅多にない。絶対やるべきですよ!』と息巻いている(笑)。僕は『まあまあ』とその場を収めて別れたんです。ところが翌日、濱崎さんからメールが届きまして

――ビジネスの御礼メールではなく……?

これには驚きました。お酒の勢いの嘘じゃなかったんだ、と。そこからはトントン拍子でした

魂の1曲『おとこ人生夢街道』と、浜村淳氏の直筆タイトル

――デビュー曲『おとこ人生夢街道』は、作詞・麻こよみ先生、作曲・岡千秋先生、という最強の布陣ですね。

岡先生とは、イベントの関係で以前から面識がありました。濱崎さんも『岡先生に書いていただくのが一番いい』と言ってくださって。

麻こよみ先生の詩が上がってきたのは去年の11月頃。その時、僕はNHK大阪ホールの現場で裏方の仕事をしていたんです。舞台袖でスマホに届いた歌詞を確認して、読み進めるうちに、本番中なのに涙が止まらなかったです

――歌詞に、滝さんの人生の歩みがそのまま投影されていた。

濱崎さんに、郵便局を辞めたこと、3ヶ月で挫折したこと、近鉄特急での再会、社長になるまでの浮き沈みをすべてお話ししていたんです。僕が希望した『60歳からでもチャレンジできる、人生まだまだこれからだという勢いある応援歌』というテーマと僕の生い立ちを、麻先生が見事に紡いでくださった。作詞家という仕事の凄さに心の底から震えました。『これ、泣かずに歌えるやろか』と本気で心配しましたね(笑)

――MVもドラマティックでありながら、どこかユーモアとストーリー性があって素敵でした。

MVの監督は、昭和プロ時代の元同僚の娘さんの旦那さん(東京のテレビディレクター)なんです。曲を聴かせたら『僕にMVを作らせてください!』と言ってくれて。予算がない中、ヘアメイクやカメラマンを自前で手配して、横浜の貸し別荘で合宿のように撮影しました。

劇中で僕が『人』という文字をクシャクシャにして、最後に拾い上げるシーンがあります。ジャケット写真を見ていただくと分かりますが、芸名の『滝あつし』も、曲タイトルの『おとこ人生夢街道』も『通天閣』も、すべて浜村淳さんが直筆で書いてくださった文字なんですよ

 

これからの夢:人生100年時代、目指すは「10周年記念ステージ」

――現在は「経営者」「マネージャー」「歌手」という三足のわらじを履いておられます。多忙を極めるのではないですか?

周りが言うほど、本人はそこまで大変だとは思っていないんですよ(笑)。基本的には『経営・マネージャー』『現場担当』『歌手』の3等分だと思っています。ただ、“裏方も表方も両方の気持ちが分かる”という強みを、どう歌手活動に活かしていくかはまだ試行錯誤の段階です。良いアドバイスをくれる人がいたら、ぜひ教えてほしいくらいですね

――60歳での新たなスタートは、同世代だけでなく多くの人に「まだまだ挑戦できる」という勇気を与えると思います。

本当にそうですね。ここから20年、30年歌ったら、僕は80歳、90歳になる。でも、うちの親父も浜村さんも、今まさに90歳を過ぎて現役で輝いていらっしゃる。水谷さんは今80歳です。

だから、当面の目標が決まったんです。デビュー10周年の時、僕は70歳。その記念ステージの司会を、90歳になった水谷ひろしさんにやってもらい、ゲストには100歳を迎えた浜村淳さんに来ていただく。これを人生の大きな目標にして、突っ走っていきたいと思っています!

――70歳の歌手、90歳の司会者、100歳のゲスト。最高にドラマティックなステージですね! 最後に、音楽ファン・演歌ファンの皆様へメッセージをお願いします。

もし20代の頃にデビューしていたら、これほど素晴らしい楽曲にも、最高の作家の先生方にも巡り会えなかった。一見、30年の遠回りをしたように見えますが、人生100年時代の今だからこそ、これが僕にとっての『一番の近道』だったと確信しています。

好きな歌の仕事ができるようになったので、1日でも多く人前で歌う日を作っていきたい。……そのためにはまず、このデビューシングルをきっちり売らないといけないんです(笑)。これを売らないと次の1枚も、新しいジャンルへの挑戦もありませんからね! 皆様、どうぞ滝あつしの『夢街道』応援よろしくお願いいたします!


インタビュー・文・撮影:ごとうまき